☆読書録 4 『歎異抄』

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鉄っぽい文章というものには、いまどき殆ど死語の「尊敬」の念を感じる。
鉄血とか鉄人とかの、鉄である。
文章というものには、時に見苦しいほど自分というものが出る。
読者を圧倒する硬度と重量、そして折れない芯の柔らかさ、余裕。
それを表現する知性。
自分の読書歴では、たのしい”怨念の収容所”ライフを描いた、『アーロン収容所』の
会田雄二氏が長くトップであった。まさしき鉄血翁である。
そのトップを更新した男こそ、親鸞。
細かい字がつぶれて読めないが、『歎異抄』の、浄土真宗の、親鸞である。
『歎異抄』の著者は親鸞ではないが、その語録であるので、問題ない。
司馬遼太郎の随筆で、清沢光之のことにふれて、この『歎異抄』が
えらく誉められていたので、興味をもって読んでみたのがはじめである。
これは、不思議な書物である。
一読した感想は「この思想で納得できる人間には、宗教はいらんだろう」
というものだった、すくなくとも現代人である私には。
「唯円よ、ひとつ言うことを聞いてくれるか」
―もちろんです
「俺のためにひとを千人殺してくれ、そうしたら極楽往生まちがいなし」
―ムリです。私じゃ一人だって殺せません
「嘘をついたのか、お前は。 ―というように、なにごとも思うままにはならない。
お前が殺せないのはお前が善人だからではない。そういう縁だからであって、
殺したくなくても千人殺すことだってある。」
「縁がなければどんな悪事もできないわけで、善行も縁ゆえである。
従って、悪事は極楽往生の障害にならない。」(13条意訳)
親鸞は、善いことをして極楽往生しようと頑張る人を指して「自力作善のひと」という。
他力本願の対義語で、自力作善。なんという否定的なニュアンス。
天国行きとこの世での善行を切り離す、という発想は革命的であるといえよう。
正義というのは相対的なものだとか、そんな話はたくさんあるが、宗教としてそれはどうだろうか。
アラーは何でも許すが現世の人と法律が許さない、イスラムみたいなものだろうか。
まあこの部分は、漁師や狩人の殺生を、大丈夫ですヨという話なのだが、
いかにも極端で、それゆえ明解ないいよう。
「俺の念仏は俺のためのもので、親や他人の為にしたことはない。
念仏の力は自分のものではないからだ。自分の力と言うなら誰のためにでもすると良い。
俺は天国で仏になって、現世に輪廻してきた親を救ってあげるさ」(5条意訳)
こんなことでいいのか。
うちは真宗だが、自分のために念仏しろなんて聞いたこともない。
6条の「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」も大体同じ内容である。
「如来よりたまわりたる信心をわがもの顔に」するなという話だ。
それ自体は実に立派で、納得すべき内容だが、これと、先のふたつの試訳と、
これから述べる第2条と、親鸞の人生とを掛け合わせて考えると、
どうにも、この男の闇の深さを感じるのである。
親鸞は弟子を持たないが、浄土宗の開祖、法然の弟子であった。
弟子が自然に師の恩を感じるのはアリだと親鸞も言っているし、自分の信仰は
法然の教えがすべてだとも言っているので、よほど法然は良い師匠で、少なくとも
親鸞からは良い関係であったのだろう。
ただし、親鸞の弟子としての席次はあまり高くなかったらしい。また、親鸞は
法然の下についていた間から、ひとり勝手に肉食妻帯を公言していたらしい。(それは本当に弟子か)
法然一派が弾圧されたとき、親鸞も、ついでに東国に追放される。
その東国で奮起して、数十年間布教し、還暦を過ぎた頃、都に帰る。
そして10年か20年後、東国の親鸞の教えは揺らいでおり、
直接、親鸞の話を聞こうと都にやってきた東国人に、親鸞は答える。
「俺は、法然聖人を信じているだけだ。念仏でもって浄土へ行けるか地獄行か、俺もわからない。
ただ、俺は才能ないので、修行でないと極楽へ行けないなら、もともと地獄が我が家さ。」
「つまるところ、信心と言うのはそういうものだ。君らも、好きにやりなさい。」(2条意訳)
歎異抄の白眉とされる部分であり、親鸞の熱い信仰を表している所らしい。
確かに熱いオトコだ。しかし、自分を信じきれずにやって来た者たちに対して、最後の一言は、
皮肉でもあり、ある意味で自己否定でもる。何のために20年も布教したのだろうか。
80歳くらいの老人の台詞であることを考えると、あまりにも苦い。
しかし親鸞の態度は捨て鉢なものではない。ただ嘘を言っていないだけである。
化け物じみたものさえ感じる。
ミもフタもない親鸞のもの言いは、自分の意思でもって自分が直接、
神(仏)と対することを強調する点で、プロテスタンティズムに通じるらしいが、
人間という動物の動物性に対する諦観ではっきり分かれる。
「念仏は楽しくないし、早く天国に行きたいとも思わない?俺もさ。」(9条意訳)
天国というフィクションに対して、理屈に詰まって自殺を禁じたキリスト教に対して、
バカだからね、良さが分からんのさ、と放り投げる親鸞はずるい。
ガキっぽいが、本物のガキはこういうことは出来ないし、しない。
思うに、王様は裸だ、ならぬ仏様はハダカだ、と叫びつつ、そのハダカの美しさを褒め称える、
『歎異抄』とはそういう話であろう。
イヤなじじいだ。