☆読書録 8 『信長 あるいは戴冠せるアンドロギュノス』 『聚楽 太閤の錬金窟』

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伝奇小説といえば妖しいものと決まっているのだが、中でも究極に妖しい、同じ作者の二冊。
織田信長。
日本史の英雄時代に頭ひとつ抜けたトップスター。
およそ伝奇ものでは、好意的にも悪意的にもほとんど人間扱いされない、日本史上最強の男である。
司馬遼太郎さえ、『新史太閤記』での秀吉の独白の中とはいえ、この人は神だ、と書いたほどである。
基本的な信長像は、『花の慶次』の回想で出てくる、男前のラオウ、これがデフォルトであろう。
その『花の慶次』の原作者、隆慶一郎は、論理的に考えればこの世に善も悪もない、しかし人間は、
確かにあれは悪だ、と感じられることがある。というようなことを述べて信長の虐殺行を断罪してから、
しかしそれは、彼の中の理想と正義がそうさせたものだ、と事態の複雑さを指摘する。
そんな隆慶一郎の『風の呪殺陣』は、比叡山焼き討ちに生き残った僧が信長を呪殺しようとする話だが、
とにかく悪役はかっこ悪く描く隆氏をして、この信長は完全に主役を食ったアンチヒーローになってしまっている。
伝奇といえば山田風太郎も、短編だが『忍法 死のうは一定』が信長メインの話だ。長編の忍法帳では
信長の出番はついに無かったが、やはり武田信玄や上杉謙信を上回る巨大な精神の持ち主として描かれ、
作者お気に入りキャラ、戦国のメフィストフェレスこと果心居士をひれふさせる。(それにしても凄まじいタイトル。)
荒俣宏の『幻想皇帝』はアレクサンドロス大王の話だが、何故か、本当に何故か、ルイス・フロイスが信長に
大王の生涯を物語る、という形になっており、神性を加えていく大王に信長をだぶらせる。
まあ、ヘリオガバルスよりはアレクサンドロスが、まだ似ているだろうが。
ヘリオガバルス。とは何か。という話の枕で、宇月原清明の『信長 あるいは戴冠せるアンドロギュノス』。
アンドロギュノス。両性具有。大丈夫かこの話は。
最初の舞台は1930年、ベルリン。もはや何があっても驚くまい。
『ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト』を執筆中のアントナン・アルトー(これは実在)
の前に現れた日本人、総見寺龍彦は、総見寺(信長が安土城に建てた自身を本尊とする寺)に伝わる口伝、
信長公は両性具有(ふたなり)なり
と、ヘリオガバルスが信長であることをアルトーにささやく。
ここで場面は信長の青年時代に飛び、信長と怪僧の出会いを描き、
そしてまたベルリン、ここで本作の軸となる「バール信仰」が語られる。
バールは、旧約聖書の敵役にされる、古代オリエントで信仰された牛の姿の太陽神であり、
ローマ帝国の少年皇帝、ヘリオガバルスにはエラガバルス神として、霊石をもって信仰された。
日本ではアマテラス(=太陽)とスサノオ(=牛頭天王)に分断され、スサノオは草薙の剣(=霊石)と分断される。
その御子として生まれたアンドロギュノス。分断されたものをひとつにもつ者。
女だ。汗ばんだ胸元をはだけさせ、しどけなく男にもたれかかっている。(略)
籐吉郎はぐっと目を近づける。華奢な顎がゆっくりと動き、端正な顔がこちらを向いた。女は、信長だった。
籐吉郎は叫ばなかった。彼の左手は、自分でも信じられない本能的な速さで口に突っ込まれた。
目を硬く閉じ、六本の指を骨にあたるまで噛む。
野の者達が、地から湧き上がるように合唱する唄は、籐吉郎も聞いたことのない、叩きつけるような激しいリズムだった。
鼓は破れよとばかりに連打されている。野の者達は足踏みし、手を叩き始めた。 (略)
汗が入りぼうと霞む目に、信長の眉間が絢爛と輝くのが見えた。白い額の肉を割って、銀の玉よりも輝く光体、
炎に照らされてではなく、明らかに自らの輝きで燃えている光体が覗いている。
「石を手にした人間は世界を制する。石は君臨するものの象徴なのだ。」
「殊に、天から来た石はね。 (略) 石の使徒達は不思議な金属信仰とともにさすらったのだ。」
「牛頭天王がブッダを殺すあの詩は衝撃的だった。霊石は聖者をも倒す。あの詩で初めてわかった。西方でも同じことが起きた。イエスは霊石が殺したのだと。」
「ロンギヌスの槍か!」
物語は宗教の謎を追うベルリンのパートと、怪僧の呪術で敵を倒す信長のパートを並行して進む。
30年代ベルリンが舞台である以上、こちらで「謎の男」が現れればヤッタゼーと叫ぶしかないが、
やはりそっち方面で話は進んでいく。ネット上での評判は芳しくないが、私はとても好きだ。
信長方面では、長篠の戦いでは鉄砲の3段撃ちではなく要塞戦であるなど、最新の説を採用している。
秀吉の6本指も、そういう説による。その上で、上に引用したような異形の姿。
それらを飾るのは、漢字の多い、作者の陶酔が伝わるような文体である。
ただでさえ掴みきれない内容に、まとめきれないほど多くのモチーフを詰め込んだ小説であるだけに、
しっかり読んでも結局さっぱり内容がわかってないという事態もありうるが、
要するに信長賛美だけ伝わったなら十分ではあろう。
「豊臣」の家などどこにもない。尾張中村の水呑みであった籐吉郎が、急ごしらえした拙い夢に過ぎないのだ。笑い出したくなるほど拙くとも仕方あるまい。もともと夢など抱ける身ではなかったのだから。あの夏の日盛りの庭に、いつまでもただ座り続けていたかっただけなのだから。
わしの夢は信長様のほかになく、わしの憧れはお市様のほかになかった。
自分が一番欲しいもの以外のすべてを手に入れてしまった時、人はどうふるまえばいいのだろう。
『聚楽 太閤の錬金窟(グロッタ)』は、『信長』の続編。
バールもアルトーもナチスも関係ないので、別物ではあるが、『信長』の(特殊な)人物像を引き継いでいるので、
やはり続きとみるべきだろう。ただしアンドロギュノスではなかったようで。
秀吉と家康、彼らが惹かれ続け、突然失われた信長への思い。彼らが作るべき天下は。
謎に包まれた豊臣秀次と、「ジャンヌ」を失った異端のイエズス会士。後世に何も残らなかった聚楽第とは。
そして秀次にさらわれた、「目」の少女の役割とは。
今回は錬金術、「グノーシス異端」、そしてジャンヌ・ダルクとジル・ド・レの物語である。大丈夫か、この作者は。
グノーシス異端。
この天地を作ったのは猿に似た堕天使、デミウルゴス。
泥から神を真似られて作られ、偽の神を崇めるアダムとエヴァ。それを見かねた主は、
光の蛇なる姫御子を遣わし、アダムとエヴァに知恵を授ける。
しかしデミウルゴスにとらわれた姫御子は、キリストに救済されるまでこの世をさすらい、殺され続けると。
猿が神の真似で天地を作る、というモチーフは、まあ、すごい所から引っ張ってきたものだが。
とにかく話のネタが膨大な上にあちこち話を飛ばすのがこの作者の手法で、
『ドグラマグラ』のノリが実はとても近い。
それにしても、信用できるのだろうか、大いに謎。
「悲しいことです。ヒデツグの殿の魂(セニョール)は、地獄へと連れ去られました。」
(「殿の魂」で「セニョール」)
関白・豊臣秀次に、異端宣告(アナテマ)!
アナテマ!妙にカッコイイ。使ってみたくなるが、わかる相手はいるまい。
底なしにディープな話へ。
秀吉→聚楽第→黄金。
黄金→錬金術→ホムンクルス。
秀吉。ホムンクルス。**。
そんなもの盲点とは言わん。恐ろしいまでの妄想力。
「本当に不思議・・・私どうしてもわかりませんの。長政様は、なぜに<初>などという名をつけたのでしょうかしら。長女でもない娘に」
信長の妹・市と浅井長政の娘、茶々、初、江。確かに次女に初という名は、いわれてみれば不思議だ。
が、そこから歴史ミステリーを作り上げるのは、本作が初めてではないだろうか。ちょっと聞いたことがない。
とっ散らかった話を飛び飛びに紹介してもしょうがないのだが、結局、
信長から全てが始まって、信長へ帰納していくストーリーである。
長い長いエピローグを締める、家康の最期の言葉、「ざっと、済みたり。」は名言。
さてさて、私なりに考えたこの2冊に感じる、しっくりと来る違和感の正体。(意味不明だが、ニュアンスは伝わると思う)
当時16世紀末の日本は、人間の野心が沸騰する時代にゴールドラッシュが重なり、
生き残りを賭けて民政に心を砕く為政者の下で、世界の中でも特別に豊かな地域となっていた。
一向一揆というものが、迷信深く狂信的な集まりではなく、
産業と相互扶助のネットワークに支えられた近代的な組織であることも分かってきている。
司馬遼太郎や山田風太郎の世代や、その後のマルクス主義世代では、
必ずしも悪口ではないが、人として、物語が貧乏くさくて狭いのは仕方ないことでもある。
そのへんで、若い作者の新しい歴史観でもって描かれる世界は、
昔の小説を読みなれているともやもやと違和感があるが、やがてしっくりと来る。
世界の中の先進国日本・イン16世紀。
実にエッジな世界であるが、意外にそのうちスタンダードになるやもよ。